引き止めるもの

第二テサロニケ2:7で出てくる「引き止めるもの」は、集会では通常、聖霊のことだと解釈されています。しかし、聖霊を表すということの根拠について、私は納得のいく説明を聞いたことがありません。
この「引き止めるもの」を聖霊と解釈するのは、患難時代の開始と「引き止めるもの」が取り除かれるのが時を同じくしていることから、患難前に取り除かれるもの=集会であり、聖霊は集会を構成する信者に内住しているので聖霊も集会と一緒に取り除かれる、と考えるところからきているようです。
こうしてみると、お分かりのように「引き止めるもの」が聖霊であると解釈するためには、まずもって患難前の集会の携挙が前提され、さらに集会の携挙と共に聖霊も取り去られるという前提がなければなりません。
ときどき、あまり論理的に物事を考えるのが得意ではない兄弟が「引き止めるものがあって」というみことばを根拠に患難前携挙と集会の携挙と共に聖霊が取り去られることを「論証」していたりすることがあるように思いますが、それでは結論と理由が逆転してしまっています。たいていの兄弟姉妹はこんなことを考えることもなく、ただ教えられたことを鵜呑みにしているだけなので、このような論証しているつもりが論証になっていない、同じ結論を共有している相手にしか通じない話をしてしまいがちです。
それはともかく、引き止めるものが聖霊だとするためには少なくとも患難前の携挙と携挙に伴う聖霊の引き上げが論証されなければなりません。患難前の携挙についてはさまざまな論拠によって説明されていて一筋縄ではいかないので、ここでは聖霊の引き上げにしぼって考えてみたいと思います。
集会の信者たちは(そして恐らく多くのディスペンセーション主義者たちも)、集会の携挙と共に聖霊も天に引き上げられてしまうと考えています。その理由は、おそらく聖霊は集会を構成する信者のうちに内住しており、なおかつ、地上では聖霊は信者のうちにのみ存在していると考えているからです。信者に内住する聖霊以外にも地上に聖霊が存在するなら、集会が携挙されても聖霊が何らかの仕方で地上に存在し続けることになります。集会の携挙が聖霊の引き上げをも意味すると考えるためには、聖霊が地上において信者の内にのみ存在し、他の場所には存在しないと考えることが絶対に必要です*1
さて、そんなわけで聖霊の居場所は信者のうちに限定され、集会の携挙とともに聖霊も地上からいなくなってしまいます。しかし、ここで一つの困った問題が生じます。それは患難時代にも人が救われるという教えです。集会の信者たちは、福音書や黙示録における終末についての記述はほとんどが患難時代についてのものだという理解ですから、そこに出てくる救われた人たち、患難時代を最後まで耐え忍んだ信者たちは、集会の携挙の後、誰も信者がいなくなった後に、患難時代に入ってから信者になった人たちだということになります。そうすると、この患難時代に救われる信者たちはどうやって救われるのかという問題が生じます。
よくなされる説明は、例えば仙台の集会では大塚兄がよく話していますが、患難時代にも聖霊が働くが、それは内住ではないというものです。旧約聖書において聖霊が一時的に信仰者たちの“上に”とどまったように、患難時代の信者たちにもそのような一時的な聖霊の力が働き、信者になり、信仰生活を送るということです。「人が救われるのは行ないによらず、信仰による」という真理が絶対のものとしてあるので、聖霊が取り去られたからと言って信仰以外の手段によって救われることはありえないと考え、このような説明が生み出されたものと思われます。しかし、ここまでくると「聖霊の引き上げ」と「行ないによらない信仰による救い」を両立するためにむりやりつじつまを合わせたという感じがします。もちろん、正しい教えである可能性もありますが、根拠はあいまいだと思います。これについても、聖霊は引き上げられているのだからもはや地上では働かないはず、という強い思い入れから、患難時代に聖霊が働くということを受入れない兄弟も中にはおられるようです。そうすると、聖霊の力によらずに信仰を持つということを認める必要がありますが、大抵そこまでのことは突き詰めて考えていないのではないかと思います。私の父はその点、ちょっと変わった解釈をしていたときがあり(いまでも同じ考えかはわかりませんが)、患難時代の信者は行いによって救われるのだと強く主張していた時があります(もちろん個人的にであって公にではありませんが)。
私としては、聖霊が信者個々人に内住しているというところから、集会の携挙によって聖霊も取り去られるという解釈に至るのは飛躍があると思います。聖書に明らかに示されているのは、我々信者のうちに聖霊が内住しているという肯定文の事実であって、信者の内住以外に聖霊はないという否定文の主張ではありません。信者のうちに聖霊が内住して働き、それ以外の場面でも働くということは十分に考えられることです。また、患難時代にも聖霊が今と違った仕方であろうが、結局のところ働くのであれば、携挙において特に聖霊が取り去られると主張することには特に意味がないのではと思います。患難時代において非常に悪い時代がやってくるのは聖霊を内住した信者たちが地上に存在しなくなる、つまり誠実できよい生き方をしようとする人間がいなくなるからだと言われることもありますが、それも根拠のある話ではないと思います。

*1:しかし、聖霊がある特定の場所にだけ存在するってどういうことなんでしょうか。霊に「場所」が果たして関係あるのでしょうか。とはいえ、イエス様も父のもとから遣わされてきた、あるいは父が助け主を遣わすという表現もありますので、少なくとも人間の理解の範囲で示されていることとして、神であるイエス様や聖霊が遣わされて「下ってきた」というのは真理です。そういう意味では、聖霊が地上にだけ存在するとか、天にだけ存在するという言い方もそれほどナンセンスではないかもしれません。