不適切な勧め

日本の諸集会において見られる、特にある程度の年齢になった信者の子供に対しての声掛け「そろそろ従ったらいいんじゃないですか」「バプテスマ受けたらいいんじゃないですか」というものがある。
教理的には、人は信じて救われたならば聖霊の働きによって自分から従うようになるのであって、信じることと従うこととは同一のことである。その観点からすれば、従うことに躊躇する人はそもそも信じていない、救われていないと考えるべきなのであって、信じて救われているのに従わない人は存在しない。
我々はこうした、「信じていない人に対して信じているものと前提して従うことを促す」という悪しき日本の諸集会の慣習を問題視するものであるが、我々にも問題のポイントを取り違える危険があり、注意しなければならない。というのは、救われていない未信者に対して不適切な「そろそろバプテスマを受けて従ってはどうか」などという従うことの勧めを行ってしまう人も、教理的な説明――信じることと従うことは一つであり、信じた者には、信じるからこそ従う思いが与えられるのであって、従うことが先に来るものではない――については、ほとんどすべての方が頭ではわかっており、納得も賛同もしているだろうからだ。それなのに、実際の場面では不適切な対応をしてしまうのである。つまりこれは、単に教理的な理解の問題ではなく、より実際的な関係の中における齟齬なのであり、「正しい教えの説明」だけでは解決することが困難な問題であるということである。
ではどこに問題があるのだろうか。それは先にも書いた態度「信じていない人に対して信じているものと前提する」ということにある。つまり、不適切な「従う勧め」の問題とは、信じていない人に対してそれを行うことが良くないわけだが、勧めを行う当人にとっては、相手はあくまでも「すでに信じている人」だと捉えられているわけである。これでは、いくら「信じるから従うのであって、従うことが先に来るのではない」と「正しい教理」を説明しても、改善が見込めるわけがない。勧める当人は信じている人に対して勧めているつもりだからである。
このように、問題は教理の理解にあるのではなく、実際的な場面において、相手が信じていないのに信じていると思い込むという認識の誤りにある。
では、なぜこのような認識の誤りが生じているのだろうか。それは日本の諸集会の多くの信者たちが、「クリスチャンホームの子ども」というものについて誤った認識を持っているためであると推察される。ある一定程度の年齢に達したクリスチャンホームの子どもは信じるようになっているはずだ、という無根拠な思い込みが存在しているようである。彼らがそのように思い込んでしまうのは、クリスチャンホームの子どもが小さいころから集会に来て日曜学校に出席し、今現在も集会に拒まず来続けているということからそのように思い込むようだ。しかし、小さいころから日曜学校に出席していることや、ずっと集会に来続けていることは、そうでない場合よりも救いに与るのに好適な環境にいるのは確かだが、その人が救われているかどうかを判断する基準には全くならない。事実、十年以上も集会に来続けているが救われない外部からの求道者というものを我々は見ているし、その人がたとえ何十年集会に来ていても、どうやらイエス様のことをまだ信じてはいないようだという判断をすることはよくあるはずであり、クリスチャンホームの子どもだからといって外部の求道者とは異なった特別な救いがあるなどということはない。
ところが、「救われていない人に対する従う勧め」という問題がしばしば見られることからすると、クリスチャンホームの子どもがいつの間にか救われているかのような、ある種の誤解や幻想が日本の諸集会には蔓延していると考えざるを得ない。従って、不適切な従うことへの勧めという問題を取り扱う我々にとっての課題は、救いと従うことの教理を精緻化したり強調したりすることではなく、「いまおとなしくいつも集会に来ている○○兄姉の息子の○○君や娘の○○さんは、バプテスマを受けたいと言わない以上、信じていないし、救われていない。そもそも福音が理解できていないのかもしれないし、信じるとはどういうことなのかが分からないのかもしれない」という現実を個別具体的に指摘し、従わせようとすることから信じるための福音を語ることへと移行するよう促すことである。自分の息子・娘が、親しい兄弟姉妹の家族が、成人するのも近くなって信じていないと考えるのは苦痛なことかもしれない。それは自分たちの教育や福音の奉仕が実を結んでいないかのような責めを感じさせもするだろう。不適切な勧めの蔓延は、そのような苦い経験を避けるために、表面を取り繕ってしまい現実を否認しようとする日本人的な身振りなのかもしれない。しかし我々はみことばの真理と聖霊の導きによってそのような自分の心の内にある現実逃避の障壁を乗り越えて、真実な宣教へと踏み出してゆかねばならない。我々の子弟が救われる道は、そこにしかないのである。