イサクを捧げるアブラハム 創世記22:1~:19

 創世記22章において、神がアブラハムに対して、ひとり子のイサクを全焼のいけにえとして捧げるように命じた、という記事が記されている。この記事に対する典型的な誤解は、神が子どもを全焼のいけにえとして捧げることを命じるのは、聖書の他の箇所と矛盾しているというものである。

エレ7:31 また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。

 しかし、1節に書かれているように、これは「試練」であって、アブラハムの信仰を見ることが目的であり、イサクが実際にほふられて捧げられることは望まれていなかったということは明らかである。事実、イサクをほふろうとしたときには神はアブラハムの行為をとどめている。神が望んでいたことが何であったかということについて、誤解の余地はない。少なくとも、実際にイサクを死なせるつもりはなかったということは確実である。
 さて、そのようなわけで、神が望んだのは「アブラハムの信仰」であった。ひとり子を捧げることそのものは望まれなかったが、ひとり子を捧げるほどに「自分を神に明け渡す強い信仰」を神は望まれた。
 また、ここでもう一つのこの記事に対する誤解を取り上げなければならない。それは、ここにおいて記されているのがアブラハムよりもむしろイサクの信仰だという誤解である。記事を素直に読む限り、ここにおいて書かれているのはあくまでアブラハムに対して与えられた試練であり、アブラハムの信仰である。

22:1 神はアブラハムを試練に会わせられた。
22:1 今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。
22:16-17 あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。
22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。

 これらの記事中のことばから分かるように、神が試練に会わせたのはアブラハムであり、神がご覧になったのはアブラハムの信仰である。イサクについては、道中で父アブラハムに、いけにえのための羊がどこにあるのかという当然の疑問を投げかけているだけである。
 また、へブル書でこの記事が言及されている箇所でも、述べられているのはイサクではなく、アブラハムの信仰である。

へブル11:17-19 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

 以上のことから分かるように、焦点を合わせられているのはアブラハムの受けた試練、アブラハムの信仰である。もちろん、イサクの信仰について考えることが悪いわけではないが、明確に書かれていない以上、イサクの信仰については個人的な想像の域を出ないものであると自覚すべきである。
 このように、創世記22章の記事に関して、聖書は明確にアブラハムの試練・信仰を語っており、イサクについてはほとんど語られていない。しかし、書かれていないイサクの信仰ばかりが熱心に語られ、はっきりと書かれているアブラハムの信仰についてあまり語られないとすれば、そこに何らかの歪んだ思考があると見るべきである。
その歪みを分析するのはさして難しいことではない。まず、「自分のひとり子を殺して捧げる」という行為が一般的な倫理観とかけ離れていること。次に、信仰的に考えたとしても、自分の子どもを殺して捧げるという行為は通常肯定できないということが私たちに拒否感を起こさせる。そしてまた、本来的に人間には自分を人生の主人と考える傾向があり、神の呼びかけを拒み、神のために自分自身を捨てて明け渡すことを拒む性質を持っていることも、アブラハムの信仰について見るのを避けてしまう大きな原因と考えられる。アブラハムの示した信仰は、自分を捨てる、明け渡すということの究極的な模範の一つとなっているので、彼の行為を見る私たちに、自分を捨てて明け渡すことへの無意識的な恐れや不安を引き起こすのである。
このような自分を捨てることへの恐れや不安は、未信者のうちにのみ見られるものではなく、私たち信仰者のうちにも見られるものである。確かに信仰者はイエス・キリストによる贖いを信じて救われたが、しかしイエス様の次の命令を思い起こさなければならない。

マタ10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、(日々)自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい」(マタ16:24、マコ8:34、ルカ9:23)
※ ルカのみ、「日々」ということばが入っている

ルカ14:26-27 わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

ガラ5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

信仰は、最初に救いを受入れた瞬間だけで終わるものではなく、日々自分の十字架を負ってキリストについていくことが求められるものである。自分の十字架を負うとは自分を捨てることであり、自分が人生の主人であるのをやめることであり、神に自分を明け渡すことであり、日々その経験を繰り返すことである。
そして、このことに関して、自分を捨てることがまた「いのち」を得る道であるということをも私たちは忘れてはならない。上に引用したイエス様の「自分の十字架を負え」という命令の後には、ルカ14章を除いて、いずれの記事も「いのち」を失うことと得ることについてのことばが続いている。

マタ10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
マタ16:25-26 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
マコ8:35-37 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
ルカ9:24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

 またさらに、ヨハネ12章の次のことばも同じことを教えている。

ヨハ12:24-25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければそれは一つのままです。しかし、もし落ちて死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

 特に、このヨハネ12章では、原語において、「失われる自分のいのち・憎むべきいのち」と、「永遠のいのち」に、それぞれプシュケーとゾーエーという異なることばがあてられており、異なった性質のいのちがあることをはっきりと示している。
 自分の十字架を負うこと、自分を捨てることはこの地上の「いのち」を捨てることである。それは単に肉体的に死ぬということを意味するのではない。もちろん、迫害によって殉教する場合は文字通り肉体が死ぬという意味でのいのちを失うことになるが、信仰のために捨てる「いのち」は肉体が死ぬことだけではなく、地上における様々な執着を捨てること全般を指している。その具体例については、イエス様がやはり自分の十字架を負うことについての文脈の中で語られている。

マタ10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
ルカ14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

 このような意味において、アブラハムはイサクを捧げるという行為を通して、自分の「いのち」を捨てたのである。しかし、彼はその行為によって「いのち」を得た。へブル書においては「彼は、死者の中からイサクを取り戻した」と記されている。「死者の中から」ということは、アブラハムにとっては、イサクを捧げる決断をしたときに、すでにイサクは死者となっていたということを意味する。アブラハムにとって、イサクはただ単に「死ぬ必要がなくなった」のではなく、「死んでいたのが生き返った」のである。アブラハムにとって、これはまさに死からの復活そのものの経験であったということができる。