サウルの罷免――神の計画と自由意思

 サムエル第一13章において、サウルはサムエルを待ちきれずに全焼のいけにえをささげてしまった。この罪が原因で、サウルは自分の王国が立たないということを宣告された。最終的には、15章において王位から退けられたことがはっきりと宣言される。
 ところで、サムエルは「主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに」(:13)と言っている。
 ここには、神の計画と自由意思という古くからある問題の現れの一つを見ることができる。神はなぜ、このような失敗を犯すような人物を王として立てたのか。最初からみこころを行う王を選べばよかったではないか、という疑問が、我々の心の内に湧き起ってくる。
 さらに、ここではサウルの王国が立てられたかもしれない可能性について言及されている。このことは我々の思考をいっそう混乱させる。新約聖書を知っている我々は、神がユダ部族から王をだし、それがイエス・キリストに連なるという王の系譜について、それが神の計画だと知っている。タマルによる子孫、ヤコブ(イスラエル)の預言、モーセの預言、ボアズとルツの記事、これらの旧約の記事においても、王国がユダ部族の王によって治められることははっきりしていた。にもかかわらず、サウルの王国が立つ可能性があったとはどういうことだろうか。
 もちろん、矛盾しない可能性を考えることはできる。サウルの王国も、ユダ部族の王国も両方がいっしょに、あるいは別々に成立している状態を想定することは可能である。しかし、そんな想定によるつじつま合わせの解決が正しいとは私自身が信じられない。
 今の私には、

①サムエルのことばはあくまでサムエルという人間に過ぎない者のことばであり、真に受けることはできない

という可能性と、

②神はご自身の計画に沿わないことであっても、「実現しえない単なる可能性」(これは字義的に考えれば語義矛盾であるが)として言及されることがありうる――それはもっぱら後世への教育を目的として――

と言う可能性とがありうべき有力な考え方の候補である。しかし、サムエルのような信仰者の、しかも神の宣告を告げる文脈におけることばをなんの注釈もないのに「間違ったもの」として退けることはできないだろう。したがって、後者の考え方、「実現しえない単なる可能性」としての言及というのが、今の私にとっての最も有力な考え方である。