実はたましい

ギリシャ語の「プシキー(プシュケー)」はたましいという意味ですが(ちなみに私は織田昭氏にならって霊とたましいには厳然とした区別があると考えます)、日本語訳聖書では原語で「プシキー」と書いてあるところを「たましい」以外のことばで訳しているところが結構あります。

【新改訳改訂第3版】
マタ
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

ここで、「いのち」、「まことのいのち」と訳されているところは「たましい」です。

【新改訳改訂第3版】
Ⅰペテ
3:20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。

ここで「人々」と訳されているところも「たましい」です。

【新改訳改訂第3版】
Ⅰヨハ
3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

ここで「いのち」と訳されているのも「たましい」です。